DATE 2008. 7. 9 NO .



「氷結は終焉…せめて刹那にて砕けよ」

 傍らの少女の視線を感じながら、練り上げた音素[フォニム]を一気に解放する。

「インブレイスエンドっ!」

 マグマの上を渡る氷塊はじっとりとまとわりつく熱気を吹き払い、対岸の岩壁に衝突して高く澄んだ音をたて砕け散った。

「――これで少しはマシになった、かな」

 本来は氷の棺を「落とす」譜術だ。少し疲れを感じて、法衣の袖で汗を拭う。
 アリエッタの譜術を見てやるために、ザレッホ火山まで来ていた。
 執務の合間に行ける場所で、人目を気にする必要がない。何より、加減が要らない。

「すごいです、イオン様!」
「アリエッタにも出来るよ」

 ヴァンから一通りの事を学び、その才能と魔物達によって詠唱中も守られる事から、既に実戦に出しても何ら問題ないレベルに達していると聞いた。なら彼女のその成長をこの眼で確かめたい、そう思って、時間を作ってここに来た。

 僕は、12歳になった――

「ヴァンから聞いたよ? アリエッタには才能があるって」
「総長が…」
「ここやロニールみたいな特定の音素の影響を受ける場所でも、譜術を安定して扱える事が大事なんだ。…さ、やってごらん。さっきのは上級譜術だけど、アリエッタなら大丈夫」

 アリエッタなら、僕には出来ない事も、何だって出来るさ。

「…頑張る、です!」

 彼女にしては珍しく力強い口調でそう言うと、ぱたぱたと駆けて行って、眼下に揺れるマグマに向けて意識を集中しだした。音素の流れが変わるのが、すぐに感じられた。これならたぶん、そうかかる事なく習得するだろう。
 僕は移動用の譜陣の辺りまで下がり、そこから彼女を見ている事にした。時々アドバイスをして、出現する氷が徐々に大きくなっていくのを頼もしく思いながら。
 それにしても、暑い。ただ立っているだけでも汗が流れる。譜術で少しでも熱気を飛ばせたように思ったのは気のせいだったのだろうか。






 ――そして。
 やはり、それほど時間はかからなかった。

「―インブレイスエンドぉっ!!」

 何度目になるかわからないアリエッタの詠唱が響き、僕がやった時と何ら遜色ない大きさの氷の棺が現れた。マグマに叩きつけられたそれは、溶けてこの場を蒸気で満たすかと思いきやすぐには溶けず、いつだったか図鑑か何かで見た氷山のように、場違いなほどの白さで紅の中に浮かぶ。

「イオン様、出来ましたっ!」

 満面の笑みとはきっとこういうもの。振り返ったアリエッタは、眩しいほどの笑顔を僕に向ける。

「あぁ、よく頑張ったよアリエ――」

 つられて緩んだ口元が、だが途端に強張った。

「…イオン様?」

 僕の方に歩み寄りながら小首を傾げるアリエッタは、気づいていない。

「下がれアリエッタっ!!」

 駆け出しざまに右手を振り上げる。
 アリエッタの背後に音もなく忍び寄っていた魔物に向けて、僕は久しぶりにダアト式譜術を行使した。




「……っはぁ」

 アリエッタが去るかすかな譜陣の発動音を確認して、ベッドに倒れ込んだ。
 体が重い。

 魔物を倒すのは造作も無かった。けれど体力の消耗が半端なく、アリエッタに気取られないように取り繕うのは至難の業だった。

 ダアト式譜術は確かに消耗の激しい術だ。
 けれど、今まで何の問題もなかったのに。

 ――時間切れだ、っていうのか…?

「まだ、だ……」

 立ち上がって伝声管の所まで行き、手に取る。

「ヴァンを僕の部屋に呼んで下さい。出来るだけ早くに来るよう、お願いします」

 相手の慌てた声を無視し一気に言って、切った。
 ダアトにはいるはずだ。
 早く、早く――






「――様」

 第七音素の流れを感じる。それと、呼び声。
 ヴァンが来た、か?

「イオン様」

「……っ」

 目を開けると、予想通り、ヴァンがそこにいた。回復の譜術を発動し続けながらも、落ち着き払った様子で僕を見下ろしている。

 あぁ、そうだな。

 12歳になった導師が体調を崩すのは当たり前だもんな。

「ヴァン、もういい」

 譜術を止めさせて、自分で体を起こそうとした時。
 視界に、ヴァンの背後にいた「もう一人」の姿が映った。

「……っ!」

 フードの下、影の落ちた顔、緑の髪。
 視線に気づいたのかゆるりと瞬くと、床に這いつくばったままの僕に乾いた目を向けた。

 何なんだ
 一体何だっていうんだ
 どうしてこんなに苛々するんだ

「――なかなかの出来じゃないか」

「恐れ入ります」

 何とかそれだけ言って、僕は立ち上がった。
 まだ、体は重い。

「……数日後、導師イオンは病床につく」

「それは預言[スコア]ですか?」

「僕が決めた事だ」

 ヴァンは何も言わず、ただ僕を見やるだけだ。
 そして、「イオン」も。

「導師としての知識は一通り叩きこんであるんだったな?」

「はい。あともう少し「イオン様らしさ」を身につけさせれば、何の問題も無くなるかと。念の為、お傍に仕えていた者達は皆交代させます」

導師守護役[フォンマスターガーディアン]も?」

「もっとも気をつけなければならない者達です」

 アリエッタは、こいつの事も「イオン様」と呼ぶのだろうか。

「なら、僕が死ぬまでの間に、そいつにもう少しマシな表情をさせろ。一度入れ替わって、アリエッタを騙せたなら――お前が『イオン』だ」




「――イオン、様?」

 普段は、明るい声で朝の挨拶をするアリエッタと会う時間。
 僕は着替えを済ませて、彼女を部屋に迎え入れる。

「ご病気だなんて、嘘ですよね?」

 けれど、今日、「イオン」はまだ眠っている。
 「イオン」は昨日から寝込んでいるから。

 アリエッタが近付いてくる。

「イオン様、起きられないほど悪いですか…」

 きっとものすごく心配してくれている。
 勘の鋭いアリエッタが、部屋にもう一人いる事に気づいていないのだから。

「早く元気になって下さい…」

 アリエッタのか細い声を聞きながら、僕はただ隠れている事しか出来ない。
 「イオン」は、ただ眠り続ける。
 ヴァンに言わせればだいぶ僕らしくなったようだけど、今日は、黙らせておく事にした。
 いや、最期まで、こいつに「導師イオン」を譲るものか。
 今はまだ、僕がイオンだ…!

「どこにも行かないで下さい…!」

 アリエッタの、泣きそうな声。
 大袈裟だな。寝込んだとしか伝えてないはずなのに。
 その辺りは、アリエッタの生い立ちを思えば仕方ないのだろうか。

 大丈夫。「僕」はどこへも行かないよ。
 少なくとも、「導師イオン」はどこへも――

「アリエッタ、こんな所にいたのか!」

 予定通り、ヴァンがやってくる。

「イオン様のお体に障る。お前も以後ここへは来るな」

「そんな、アリエッタはイオン様の導師守護役…です!」

 2人の声が、徐々に遠ざかる。

「お前も、早くイオン様にお元気になって欲しいだろう?」

「それは…そう、です…」

「では見舞いは禁止だ。回復なされるまで、待ちなさい」

「はい……」

 ヴァンが部屋の扉を閉める。
 それが、合図だった。

 隠れ場所から這い出た僕の視界に、眠らせておいた「イオン」が映る。
 必死に息を殺していた僕と、穏やかに眠り続ける「イオン」。

 こんなくだらない世界、早く壊れてしまえばいいのに

 今でもその気持ちは、変わらない。

 この世に神がいるのなら、たかだか人間の預言士[スコアラー]1人に勝てない神でも、願ってやるよ。

 ついでに預言も、めちゃくちゃにしてしまえばいい。

 …そんな事の出来る神なんて、いないだろうけどさ。

「…矛盾してるな」

 「イオン」を見下ろす。

「もう決まっているのに、それでも願うなんて、意味がない」

 僕は久しぶりに、預言を詠んだ。
 僕の、預言を。




 小さな小さな譜石が、床に転がった。

「ぅぐ……っ」

 預言もまともに詠めなくなった導師の、未来。

 ベッドの枕元にくずおれた僕の視界の端で、光る。

 もう決まっているのに、それでも願うなんて、意味がない。
 それでも変えたければ、壊さなければいけないのだから。

 何とか掴み、渾身の力で床に叩きつけた譜石は、だが、割れなかった。

「ははっ……傷一つ、ついてないじゃないか…」

 ヴァンが戻ってくれば、また誰にも会わずにただ「待ち続ける」日々。

 もう、アリエッタに会う事もないだろう。

「フェレス島、行けなくて、ごめん……」

 家族も普通の生活もフェレス島も、全部諦めたんだ。
 無力な神サマも、これくらいは何とかしてくれたっていいじゃないか。

 早くこのくだらない世界が壊れますように

 けれど

 それまでの間は…アリエッタが、笑っていてくれますように――







≪あとがき≫
 最初はどうでもいいと思っていたけど、喪失が迫って来て初めて、年相応の迷いとか苦悩が芽生え てきたんじゃないかな、と。どんなに特殊な育ちをしていても、12歳なんですから。
 それにしても…これ以降、アリエッタはたぶんほとんど笑う事はないですよねorz





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